序章 十二の旗の下に
かつて、アルディア大陸は戦乱の時代にあった。
十二の国がそれぞれの旗を掲げ、己の領土と誇りを守るため、幾度となく剣を交えた。
肥沃な大地を求めて軍勢が進み、山々に眠る鉱脈を巡って城塞が築かれ、信仰の違いから昨日までの友が敵となった。
王は民を守るために兵を起こし、騎士は忠誠を誓った主君のために命を捧げた。
しかし、一つの国が勝利を収めれば、敗れた国には新たな憎しみが生まれた。
戦いは次の戦いを呼び、国境は幾度も塗り替えられた。
そのたびに田畑は焼かれ、村々は荒れ果て、名もなき人々の命が失われていった。
誰もが平和を望んでいた。
だが、その平和がどのようなものであるべきかについて、十二の国が同じ答えを持つことはなかった。
やがて、その長き戦乱に終止符を打とうとする勢力が現れた。
後にヴァルディア帝国と呼ばれる統一国家である。
帝国の軍勢は大陸各地へ進み、諸国の軍を次々と破った。
圧倒的な軍事力を前に、多くの王は降伏を余儀なくされた。
だが、帝国の進軍に最後まで抵抗した者たちもいた。
アルセリア王国の騎士王、ヴォルフラム・アルセリア。
白銀の鎧を身にまとい、獅子の旗を掲げて戦場を駆けるその姿から、人々は彼を「白銀の獅子」と呼んだ。
ヴォルフラムは幾度となく帝国軍を迎え撃ち、王国の独立を守ろうとした。
しかし、戦いが長引くにつれ、王の前には避けることのできない現実が突きつけられた。
騎士たちがいかに勇敢であろうとも、失われた命は戻らない。
城を一つ守るために村が三つ焼かれれば、それを勝利と呼べるのか。
王家の誇りを守り抜いたとしても、民が死に絶えた国に何が残るのか。
ついにヴォルフラムは、帝国との講和を選んだ。
祖国の独立を守るために掲げた剣を、祖国の民を生かすために収めたのである。
その決断を屈辱と呼ぶ者もいた。
王としての英断と称える者もいた。
だが、ただ一つ確かなことがあった。
アルセリアの王家は存続し、人々は再び田畑を耕し、子を育てる日々を取り戻した。
やがて大陸全土に及んだ統一戦争は終わり、新たな時代が始まった。
帝国暦元年。
ヴァルディア帝国の統治の下、十二国盟約が結ばれた。
十二の国は皇帝への忠誠を誓い、納税と軍事協力の義務を負う。
その代わり、各国の王家と伝統、法制度の一部、そして一定の自治が認められた。
国家間の武力紛争は禁止され、帝国は大陸の安全と交易の自由を守る責務を負った。
それは完全な平等の上に築かれた秩序ではなかった。
皇帝の権威は諸王の上に置かれ、各国の自由には明確な限界があった。
それでも、盟約は長い戦乱に疲れ果てた人々に、確かな平穏をもたらした。
軍勢が行き交った街道を商隊が通り、国境を越えて物資と文化が運ばれるようになった。
かつて敵同士であった国々の間にも交易が生まれ、戦争を知らない世代が育っていった。
帝国暦七十年頃には街道網の整備と交易の拡大が進み、大陸は繁栄の時代を迎えた。
帝国による統一は、人々から多くのものを奪った。
しかし同時に、それまで誰も成し遂げられなかった長い平和を実現したことも、また事実であった。
時は流れ、帝国暦一九八年。
統一戦争から、およそ二百年。
大陸の中央、アルディア直轄領にそびえる帝都アウレリア。
その皇宮には、皇帝レオニス・ヴァルディアが君臨していた。
レオニスは、帝国こそが大陸の平和を支える礎であると信じていた。
かつて十二国が互いに争い、無数の命を失った時代へ、人々を戻してはならない。
各国が再び独自の軍を動かし、自らの利益のために剣を取るようになれば、二百年前の悲劇が繰り返される。
皇帝にとって帝国の秩序を守ることは、支配者としての権威を保つためだけではなかった。
それは、大陸全土の民を戦乱から遠ざけるための責務でもあった。
しかし、その皇帝の傍らで政務を担う宰相ヴァルゼインは、異なる未来を見据えていた。
十二の王家。
十二の法。
十二の軍。
それらを残したままでは、帝国の統一は永遠に完成しない。
各国の王位と自治制度を廃し、軍事、税制、法をすべて中央の管理下に置く。
一つの権威、一つの制度、一つの国家。
それこそが戦争を根絶する唯一の道であると、宰相は信じていた。
やがて帝国の改革は、各国の暮らしに影を落とし始めた。
軍への徴兵と物資の徴発は強化され、地方の資源や軍備にも中央の管理が及んだ。
収穫した穀物を差し出さねばならない農民。
帝国の命令によって交易を妨げられる商人。
祖国の民を守るために剣を取ったはずが、帝国の命令によって同じ民へ刃を向けることを求められる騎士。
その不満は、初めは小さな声にすぎなかった。
しかし、小さな声はやがて各地で重なり、静かな怒りとなって広がっていった。
帝国の秩序を守ることが、平和を守ることなのか。
国の自治を取り戻すことが、真の平和につながるのか。
あるいは、そのどちらを選ぼうとも、再び戦火が上がることは避けられないのか。
まだ誰にも、その答えは見えていなかった。
そして大陸西部、アルセリア王国。
広大な平原と丘陵に恵まれ、古くから騎士道と誇りを重んじてきた国。
二百年前、白銀の獅子ヴォルフラムが民の命と引き換えに講和を選んだ王国である。
その王家には、二人の王女がいた。
第一王女、エリシア・アルセリア。
二十四歳。
王国騎士団の指揮官として剣を執り、冷静な判断と揺るがぬ責任感によって騎士たちの信頼を得ていた。
彼女にとって、騎士の忠誠とは国を支える礎であり、帝国との盟約を守ることもまた、祖国と民の平和を守るために必要な務めであった。
第二王女、フィオナ・アルセリア。
十九歳。
姉と同じく騎士の道を歩みながら、その心には、身分や立場を問わず人々の苦しみに寄り添おうとする強い思いがあった。
騎士の剣は、弱き者を守るためにある。
フィオナは、その信念を疑ったことがなかった。
二人は同じ王家に生まれ、同じ祖先の名誉を受け継ぎ、同じ国の平和を願っていた。
だが、平和を守るために何を選ぶべきか。
その問いに対して、二人がいつまでも同じ答えを持ち続けられるとは限らなかった。
やがて彼女たちは知ることになる。
忠誠を誓う相手が、必ずしも守るべきものと一致するわけではないことを。
正しいと信じて振るう剣が、誰かにとっては憎むべき刃となることを。
そして、戦場で向かい合う敵もまた、自らの正義を胸に戦っているのだということを。
帝国暦一九八年、春。
アルセリアの丘陵には、今年も穏やかな風が吹いていた。
村々では人々が日々の営みを続け、街道には商人たちが行き交い、城の尖塔には王国の旗が翻っていた。
だが、その平穏の陰で、時代はすでに動き始めていた。
二百年にわたり大陸を支えてきた秩序は、今、静かに軋み始めている。
十二の国。
十二の旗。
そして、それぞれが信じる正義。
後に大陸全土を巻き込む戦乱の物語は、まだ名もなき小さな村から始まろうとしていた。
――すべての旗の下に、守るべきものがある。
